こんにちは。ドクターカズです。
ある宴席で、アフリカの発展途上国から来た医師と相席になりました。
共通の言語は英語、身振り手振りも交えて、医学の話題で大いに盛り上がりました。
彼の英語はとても流ちょうで、専門分野について話し始めたら止まりません。
私は、ほとんど聞き役で、話の途中から、ついていくのが難しくなり、最後の方は、分かったような顔をして、ただうなずいていました。
彼も私も英語が母国語ではありません。
それなのにこの違いはなんなのでしょう。私は悲しくなりました。
聞けば、彼の母国では、医学部の講義はすべて英語で行われ、教科書もすべて英語の原書を使うとのこと。
それは凄い!
日本にも、英語の原書はありますが、私の知る限り、そんなものを使う殊勝な医学生には、お目にかかったことがありません。
我が国では、医学部の授業は日本語だし、教科書も当然日本語です。
そんな私が、英語で医学を学んできた者と英語で医学の議論をしたって、太刀打ちできるわけがありません。
後日、私の先輩にその話をしたら、「彼らは、母国語では医学を学べないんだよ。」と返ってきました。
なるほどそうか、彼らの言語には医学用語が、ほとんどないのか!
彼らは母国語で学ぶことができないから、仕方なく英語で学んでいるのです。
よくよく考えてみれば、医学に限らず、ほとんどすべての学問領域で、専門用語は日本語になっています。
私たちにとっては、それが当たり前。どの分野でも日本語で普通に勉強できます。
でも最初から、そうだったわけではありません。
例えば、江戸時代の日本語に、「微分・積分」や「海王星」あるいは「万有引力」などという言葉はなかったはずです。
言葉がなければ、高等数学や天文学や物理学を、母国語で学ぶことはできません。
それでも勉強したいと思えば、現代の発展途上国と同じように、すべてを異国の言葉で学ぶしかありません。
私がお世話になった解剖学の辞典も、1,000以上の用語が、ラテン語・英語・日本語で収載されています。
すべての骨や内臓・血管・神経の隅々までを網羅して、日本語訳が付いているのです。
これは、明治時代の先人たちが、原書をつぶさに紐解いて、一言一句もらさず読み解きながら、初めて遭遇した用語には、その都度適切な日本語訳を考案し当てはめていった結果です。
同じことが、医学の分野にとどまらず、すべての学問領域の専門用語になされたわけですから、近代日本の礎を築いてくれた、彼らの気の遠くなるような功績には感謝するしかありません。
ドクターカズが医者になれたのも、明治の先人たちの努力があればこそ。ありがたや~~。
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